※注意 ネタバレがあります。
私がビーバーになるとき。
それは、どんな時だろうか。
この映画の主人公は、彼女自身の原風景を守りたいときに、ビーバーになった。
彼女は環境保護活動家である、とおれは思う。彼女の行動は、動物や自然環境を守ることに繋がっているからだ。
ただ、動植物の保護は、彼女にとっては原風景を守るための行動の副産物と言えるのかも知れない。
彼女は幼い頃から、まわりの人と足並みを揃えることができなかった。そんな彼女にとって、理解者である祖母と訪れた池、その池を取り巻く環境、そして池に棲まう動植物たちは、自分の拠り所だった。
その拠り所である池が、道路の敷設によって壊されることになる。主人公は反対運動を展開していくわけだが、彼女が本当に守りたかったのは、ビーバーをはじめとする動植物というよりも、祖母と過ごした大切な思い出の場所の方だったのだろうと思う。
おれはこの映画を見るまで、環境活動家についてあまり考えたことがなかった。
環境保護活動についての記事を読んだり、ニュースを見たりしたことはあった。しかし、「人間の活動によって生活が脅かされている、被害者である動植物を守る活動」という定義を、あまり疑うことなく受け入れていた。また、方法が反社会的だったり、やり過ぎだと思う活動家もいるが、環境保護活動そのものについては、概ね善なるものとして捉えていた。
でも、その活動家たちの行動原理については関心がなかった。
活動家だって、それぞれの背景を持つ人間なのだから、その行動原理も人それぞれであって当然だろう。動植物が何よりも好きで環境保護活動をしている人もいれば、今回の主人公のように、自身の原風景を守りたいから環境活動をしている人もいるはずだ。
公共のためというよりも、エゴに重きを置いた環境保護活動もあるだろう。おれにとっては、その視点は新鮮で発見だった。
あと、彼女の特性として際立っているとおれが思ったのは、行政と交渉する際に、まったく人を頼らないという点である。
個人として対峙するにはあまりにも大きな行政を相手にするのであれば、まず仲間を集める必要があると、おれは思う。しかし主人公は、敵対する市長に「署名が集まれば再考する」と言われるまで、そんな発想は思いもよらなかったようである。
おれには、それがすごく不思議だった。
でも、この描写からも、池をそのまま残すことは彼女個人の戦いなのであって、公共のために、公に資するから行動しているという感覚が薄いことがうかがえる。
ただ、主人公には幼いころから人と足並みを揃えることが苦手だという描写があったので、他人と意思疎通を図りながら社会運動を展開していくこと自体が、彼女にとってはとても、とても困難なことなのかも知れない。
あと、この映画では、環境保護活動に対する大衆の冷淡さについても描かれていたと思う。
冷淡というか、熱心ではないというか、関心のある人がほとんど登場しない。
集会に参加している群衆も、市長の支持者なのだから当然と言えば当然だが、主人公の環境保護を訴える演説には無反応で、心を動かされている様子がない。
映画の最後で、ビーバーたちの棲み処は残されることになる。しかしその理由は、山火事の延焼を防ぐことができた「ビーバーが築いたダムの有用性」という、実に合理的な、人間に利するという観点からであった。
結局それは、人間同士の対話による落としどころによって実現したのではなく、為政者の心変わりによる方針転換でしかなかった、と見ることもできるだろう。
でも、おれがこの映画を鑑賞して一番言いたかったのは「ビーバーがかわいい。」である。
ビーバーがとにかくかわいい。
言語によるコミュニケーションができないときの、真っ黒で艶々した瞳が本当にかわいい。体型がずんぐりしていてお尻が大きいのもかわいいし、しっぽが平たいのもかわいい。かわいいのだ。