注意:ネタバレがあります。
本を踏むな。
頼むから本を踏むなよ。
本が踏まれるシーンで、辛くなって眼を背けてしまう。本を踏んだり、投げたり、挙句の果てには、本を踏みつけたままダンスをしたり。明るい音楽に合わせて、登場人物たちは楽しそうに歌い、踊りながら本を粗末に扱う。オズの世界において、先人達の文化や知識がないがしろにされている。そういう描写なのだろう。
そもそもおれは『本を粗末に扱ってはならない』と子供の頃に教えられた。家庭でも学校でも。おれは本を大事に、そして大切に扱いたいと思っているし、実際にそうしている。それは教育の結果の行動だと言えるが、でも本を大切に扱うのは『親がそう言ったから』という理由だけではない。
本に親しんでいる人であれば、本を粗末に扱うことなんてできないとおれは思う。例えば、おれの好きな作家の一人である梨木果歩が描く小説。おれは彼女の本に親しみと、尊敬と、感動と畏怖をもって接してきた。梨木果歩の本に限らないが、本は、おれの世界を押し広げるものであり、思考を深めてくれるものであり、孤独を肯定してくれるものであった。そのように感じさせてくれる本を足蹴にするなんて、おれにはできない。
ただ、
「本」
と一括りにしても言いのだろうか、とは思う。この世に溢れかえっている本の中には、踏みつけたくなったり、投げ飛ばしたくなるような本もある。でもだからと言って、それらを靴で踏んづけたりはしない。それは、おれは、本は著者を表すものだと思っているからだ。本の内容が自分にとって親しみやすいものでも、相容れないものでも、唾棄すべきものでも、そこに著者の存在が浮かび上がるから、おれは本を粗末に扱うことができない。
映画「ウィキッド」の図書室でのミュージカルシーンは、過去の叡智、歴史、文化の集積である本を軽々しく扱っている点で、焚書を描いているのだと思う。そして、この焚書は為政者が行っているのではなく、将来を担う学生たちが誰に強制されるでもなくナチュラルに行っている点で、オズは取り返しのつかないところまで来ているのではないかと予感させる。歌い踊る若者たちは、先人たちの叡智の結晶である本を粗末に扱うことに、微塵も罪悪感を覚えていない。
昔見た『敦煌』という映画では、為政者が明確な意思を持って焚書を行っていたという記憶がある。為政者は歴史の断絶、文化の根絶という目的を持って焚書という暴力を振るうのであるが、映画『ウィキッド』では若者がナチュラルに歴史や知性を尊敬していないので、為政者が手を加えるまでもなく、滅びるべくして滅びる社会という感じである。
最後に、
おれはグリンダの事を好きになれない。彼女が親の財力を背景に天真爛漫に振る舞っているところが好きじゃないし、彼女が自分に向けられた迷惑な好意をかわすために他人を利用するところも好きじゃない。
ただ、辛くても孤独でも踊ることを選んだエルファバと、共に踊る選択をした部分だけは好きだ。その選択は、彼女の優しさと、感謝と、後悔からとられた行動だと思うので。