映画「PERFECT DAYS」を観た感想

※注意:ネタバレがあります。

同じ世界に住んでいるように見えても、

交差しない世界がいくつも存在する。

劇中で主人公がこのような発言をしていたが、とても共感できた。

主人公のこの発言に共感できる理由は、おれがゲイだからかもしれない。

というのも、おれは自分のセクシャリティについてずっとオープンにしてこなかったし、今でもほとんどの人には話していないからだ。

「嘘をついているわけではないけれど、話していないことがある」という状況に長く身を置くと、自分と周りの人たちは同じ空間に同時に存在しているのに、その世界は交差していないように感じられる。

セクシャルマイノリティに批判的な人間はまだ多く存在する。

おれは傷つくことが怖いので、自分のプライベートについて必要以上に話さない。

また、相手のプライベートな話も自分からは聞かないし、もし相手が話してきても、その内容について判断はしない。

そもそもおれは踏み込んだ会話を避けてきたし、それが正しいと自分に言い聞かせてきた。

だからこそ、他人との接触を極端に控え、馴染みの店にしか顔を出さず、会話も最小限にとどめる――

このような主人公の生き方に、おれは親しみと共感を覚えたのだと思う。

話は変わるが、主人公は元々良い家の出身だったと思わせる描写がある。

彼は読書と音楽鑑賞を好むインテリであり、主人公を訪ねてきた妹とのやり取りから、主人公は親との確執が原因で家と縁を切り、家を出て何年も経っていることが窺える。

その妹の「今はこんな仕事について…」とか「こんなところに暮らして…」という発言を聞いて思ったのだが、もしかするとこの映画は、『人は落ちぶれても世界の美しさを讃え、感動することができる』ということを描きたいのだろうか。

もしそうだとしたら、おれは『大きなお世話だなぁ』と思ってしまった。

毎日を淡々と過ごし、身の回りを清潔に保ち、規則正しく生活し、草木を愛し、音楽を楽しみ、見知った相手とは会釈を交わし、適度な距離を保って付き合う。

このような生き方から滲み出る美しさには、主人公の「今は落ちぶれている」という設定は不要なのではないかと思った。

ただ、まぁ、おれの見方が穿ちすぎているのだろう。

主人公はもともと、家業や家族よりも自分の世界を充実させることに魅力を感じていたのだろう。だからこそ家を出たのだと思う。

ただし、主人公が元々上流階級にいた設定なので、便所掃除という職業を彼が「選択」したのだろうとおれは想像してしまう。

つまり、主人公は便所掃除「しか」就ける仕事がなかったわけではないと思う。この「便所掃除しか就ける仕事がない」という表現は、便所掃除という仕事を貶める表現になってしまうため適切ではない。

おれは職業に貴賎はないと思っているし、職業に貴賎はないと言い続ける必要があると思う。

しかし、職業を選択できる環境にあった人と、職業の選択肢が限られている人が存在することは事実だ。

もしこの映画の主人公が職業を選べる環境になかった人であったなら、映画はどのような作品になっていたのだろうか、と想像してしまう。

もしこの映画の主人公が職業を選べる環境になくても、

世界には自分の力ではどうにもならないことがあるけれど、

毎日世界は変化していて、輝きに満ち、

木漏れ日や水面の煌めきに目を奪われるほど…

世界は美しい、という結末になったのだろうか。

例えば、劇中で主人公にお金を借りたまま姿をくらませたタカシが映画の主人公だったら、

どのような時に彼は「世界は美しい」と感じるのだろうか。

借金を返せず、相手に謝罪もできない精神状態のタカシのままでは、

「ああ、それでも世界は美しい」とはならないのかもしれない。

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