Netflixで映画「聖なる証 The Wonder」を観た感想。

注意:ネタバレがあります。

面白かった。

イン
アウト
イン
アウト
私はどちら側の人間か。

冒頭に「私たちは物語あっての存在」だという言葉があり、「イン アウト イン アウト」という言葉で映画が終わる。この映画において、物語とは、端的に言えば、宗教や信仰を指しているのだと思う。人はそれぞれの物語を持っていて、それにより生かされていて、またそれにより死んでいく。そして、ある物語の外にいる人間が、物語の中にいる人間とどのように関わっていけるのか。この映画はそういう話をしているのだと思った。

アナは、アナとその家族(と属する教会)の物語の中で生き、苦しみ、悔い、救われようとして、死を厭わない。外から来たエリザベスは、その物語を受け入れることができない。エリザベスがその物語を絶対に受け入れられない理由は、彼女の発言にもある『(アナを)救えるのに見放すのは恐ろしい行為だ』という考え方によるのだろう。エリザベスの”救う”は、アナとその家族の魂の救済という意味ではなく、現世における肉体の死を阻止するという意味である。
エリザベスは”生きていること”に、信仰上の魂の救済よりも価値を置いている。

おれも、
生きているから
 悔いることができる
 反省することができる
 やり直すことができる
 これから新たに善い行いをすることができる
と、考えている。

生きていく上で、物語を本当に、心から必要としている人がいることは知っている。日本でもニュースやワイドショーで、旧統一教会の話題があがらない日はない。

生きづらさを抱える人が求める物語が宗教である場合、この映画のアナとその家族のように、信仰の内に迎える死は名誉であり、信仰の内に迎える死は安らぎであるという物語であって欲しくない。
注意が必要なのは、大往生を迎える際に信仰の内に死を迎える人とは、話が別ということである。
おれが言いたいのは、弱い立場にある、この映画ではアナという子供が、本心では生きたいと願っている子供が、物語の犠牲になって欲しくないということである。

でも、当人が物語に「イン」した状態であれば、アンが犠牲者と呼べるのかどうかが難しいと思う。実際に、アンは自分の物語の中にいて、兄と家族と自分が救われるためには死を選びたいという強固な意思を持っている。「イン」した状態にあっては「アウト」するという選択肢自体がなかなか生まれないし、「イン」した状態から「アウト」させるのは非常に困難である。

この映画でおれがナイス!!と思ったのは、エリザベスがアンの物語を利用して、アンを蘇生させたところである。
アンは自身の物語に「イン」したまま、アンからナンに生まれ変わっている。つまり、アンは自身の信仰を全うして生涯を閉じ、その信仰の力があったからこそナンに生まれ変わったのだと信じることができたのだから、アンの物語は崩壊していない。

物語=信仰とすると、信仰は不可侵というか、生きるとはどういうことかという領域だから、一概にこれが良いとか悪いとか言えないし、押し付けたり押し付けられたりするものであってはならない。人それぞれの領分だから。

でも、せっかく物語を持つのだったら、それによって自分が不安になったり、周りの人間が不幸になったりしないものが良い。

子供が泣いたり苦しんだりする様を見るのは、映画(物語)であっても辛い。ナンが新しい地で幸せになれたら嬉しい。