注意:ネタバレがあります。
かなり好きな映画。
夜の東京、
美紀と里英のやりとりで、
「ってか”二ケツ”って久々聞いたわ ハハッ ダサ〜」
って台詞がある。
おれも”二ケツ”って久々に聞いたし、やっぱりちょっとダサいなって思ってちょっと笑ってしまった。そして、その後二人が実際に二ケツしているシーンを見て涙が出た。とても良いシーンだと思った。
背中合わせで自転車に乗っているからお互いの顔は見えないのに、背中から伝わる安心感があったのだろうか。二人の友情が信頼にまで高まった瞬間だったのかも知れない。
この映画は、好きなシーンがたくさんある。
華子が美紀の家に押しかけて帰る途中、橋の上で見かけた女子たちと手を振り合う場面も好きだ。
美紀の「どこで生まれたって
最高って日もあれば 泣きたくなる日もあるよ
でも その日 何があったか 話せる人がいるだけで
とりあえずは 十分じゃない?
旦那さんでも 友達でも
そういう人って 案外 出会えないから」
その言葉を受けて、華子にとって逸子が大切な存在だと気が付いたのかも知れない。そして、幸一郎はそのような存在ではないと確信したのだろう。
橋の上で女子たちに向かい、初めはおずおずと、次第に大きな動作で手を振る華子の表情は明るい。
知り合いではない、たまたますれ違った人たちが自分を変えていく。
華子の中で変化の準備が整ったから、そのきっかけを受け取ることができたのだろう。
華子の周りに居る人達は、初めから分かっている。この結婚は”このようなモノだ”と。でも、華子だけは知らなかった。というか、華子は”このようのモノ”ということにピンと来ていなかった。
家族や友人たち、華子を取り巻く人々からしてみれば常識とされる考え方に対して、華子は目を瞑っていたわけではなく、かと言って興味を持つでもなく、だから嫌悪したり諦めたり肯定したりすることはなかった。おっとりと、主体性なく育ってきた。
箱入り娘。それをこの映画では貴族と呼んだのだろう。
でも、この映画はこの貴族の娘を責めているのではない。そのように育って来た人間がいる、とだけ描いている。
この映画を観て思ったのは
女性は生きている
笑っている
泣いている
悩んでいる
それぞれの人生の主体として生きている
そして輝いている
そういう映画だと思った。
稼業を存続させるための駒ではなく
子供を産むための嫁ではなく
お飾りの妻ではなく
添えものではないのだと。
ただ、
家の嫁として、男の妻として、子の母として、その役割を全うしている女性を否定するものではない。そのような女性たちを否定したら、
逸子の「日本って 女を分断する価値観が普通に
まかり通ってるじゃないですか (略)
女同士で対立するように仕向けられるでしょ?」
という言葉が無駄になってしまう。
このセリフがめっちゃくちゃ良い。心に刻み付けて置かなければならない。
最後に、この映画は女性たちに焦点を当てていたけど、幸一郎もまた生きづらさの呪いが掛けられていることを忘れてはいけないと思った。
でも、映画の最後で、幸一郎もまた”男はこのようなモノ”という呪いから抜け出せる可能性があるという希望を感じられた。それは、幸一郎の表情に現れていたと思う。
お飾りだと思っていた華子が自分から離婚を切り出し、久しぶりに出会ったらマネージャーという仕事をこなしている。華子が主体性を獲得していく様を見て、幸一郎にも変化が訪れたのだと思う。
この映画は、誰かを否定しなかった。
だから優しかった。
良家のしがらみに囚われたままの人達も描かれていたが、それを否定したり意地悪に描いたりはしていなかったと思う。
音楽も包み込むような心地良さがあって、優しい。