映画「BLUE GIANT」を観た感想。

注意:ネタバレがあります。

登場人物が2Dから3DCGに切り替わった途端にすごく肩幅が広くなるのが気になった。肩さん。

この映画はとにかく大きな音で聴きたいと思って映画館に足を運んだので、大正解だった。やっぱり音楽は大きな音で聴くに限る。

おれがグッと来たシーンは、沢辺(ピアノ)が豆腐屋のおやっさんのところにわざわざ謝りに行ったところだ。沢辺が「また演奏を聴きに来てください」と頭を下げていたところも良かった。彼の成長を目の当たりにして感動した。また玉田(ドラム)が客に「君の成長が楽しみだからライブに足を運んでいる」みたいなことを言われて涙ぐんでいたシーンも良かった。

若者の成長を目の当たりにするのって、とても良いものだなぁと思う。心が洗われるというか。若者が一生懸命なのって、とても尊い。

反対に、おれはダラダラしている人が好きじゃない。年齢は関係なく。できるだけ怠けて適当に済ませようとしている人が好きじゃない。

それなのに、おれの恋人は割とダラダラとして、何かに真剣に取り組むということをしない人間なので、いかがなものかと思っている。いや待てよ。恋人はお気に入りのゲームをプレイする時は真剣に取り組んでいる。例えばポケモンの新作が出ると、寝食を疎かにする程必死に取り組み、ストーリーをクリアした後はバトルメンバーの構築に勤しんでいる。真剣そのものだ。

でも、おれは恋人の真剣な眼差し、必死になってゲームをプレイしている姿を見ても特段の感動を覚えない。いい年をして何をやっているんだ、とさえ思う。

ただ、こうも思う。のめり込むことができる対象がたまたま人から評価されたり、感動を与えたりできる類のものであったら、それはすごくラッキーなことなのかも知れないと。それがたまたまジャズだったりしたならば、すごく幸運なのではないかと。

おれの恋人は情熱を向けられる対象がたまたまポケモンだっただけのことで、そのためにおれから低い評価を受けるというのは不当なのかも知れない。

一生懸命にポケモンに取り組んだ結果ポケモンが上手(ランクバトルが上位?)になった人は、ポケモンが好きな人たちから評価され、またそのような人たちに感動を与え、YouTuberになってお金を稼ぐことだってできるのであって、結局、情熱を持って何かをしている人に対して、他人がとやかく言ったりジャッジすることが間違っているのだろう。

話が逸れたが、BLUE GIANTの終盤で沢辺が「お前、ドラム上手くなったな」という発言をしでかした際『!!もうすぐブルーノートでライブなのに!!死亡フラグを立てないでくれ!!』と思ってソワソワしていたら、やっぱり交通事故に遭ってしまったので『せっかく頑張って来たのにかわいそう。悲惨な目に遭わさないで欲しいのに、、、』と観ていられなかった。ただ、沢辺がライブのアンコールには参加できて、その演奏が本当に素晴らしかったので、おれは涙が出た。あと「右手は治るかも知れない」という台詞があったので少しほっとした。

それにしても、大はまっすぐで利己的な人間なので、おれは少し苦手だ。大と付き合っていくには、自分も彼に見合う能力が必要だし、能力が足りなければ彼と同等以上の努力が求められる。努力できなければ彼は離れて行ってしまう。それってなかなかキツい。それがプロの生き方というのなら仕方ないけれど。大や沢辺にとっては仲良しこよしがバンドの目的ではないし、それでは到達できない演奏があるという事実を理解している。でもこれは別に音楽に限った話ではない。何かを共同で為さなければならない時、妥協を許さない人はいる。妥協を許さずに、それぞれが単独で最高のパフォーマンスを発揮した時に、それが自ずと全体としてまとまりのある行動になる。

?!

それってスタンド・アローン・コンプレックスじゃん。

攻殻機動隊じゃん。

好き。

最後に、サックスを吹く大がえらく官能的に描かれているなと思った。サックスも男根のメタファーとして捉えることが可能だと思う。いや、官能的に描かれているのは、大だけではない。玉田のドラムだって、沢辺のピアノだって、彼らが演奏する際にも、必死さ、自己陶酔、大粒の汗、エクスタシーなどが描かれていた。と言うか、セッションがそもそもセックスみたいだし。一心不乱に酔いしれて、大粒の汗が迸って、メンバー同士の駆け引きがあって、目的は最高の瞬間を産み出そうとしているところとかが。「これはまさしくBL!」とか言う気はなく、別に彼らを裸にして睦みあう様を眺めたいとかではなく、音楽って、ジャズって、官能的な部分があるなって。この映画を観てそう思った。