映画「怪物」を観た感想。

注意:ネタバレがあります。

映画「怪物」を観に行った。

この映画がカンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したと聞いて、しかも脚本が坂本裕二だと聞いて、『絶対おれ好みなはず』と思い観に行った。ドラマ「カルテット」や「大豆田とわ子と三人の元夫」、映画「花束みたいな恋をした」とか、おれは大好きだった。でも恋人は映画「花束〜」に絶望的にはまらなかったので、恋人を誘わずに独りで見に行った。

映画のラストで、

列車の出発が子ども達の今生における死を意味するものでなくて、本当に良かった。子ども達が、生まれ変わることなく元のままの自分たちで良かったと笑ってくれて、本当に良かった。

この映画で印象的だったのは校長先生の「誰かにしか手に入らないものを幸せとは言わない。誰でも手に入るものを幸せって言うの」と言う台詞である。映画の中で発せられた言葉だから、校長先生の心情や意図を汲み取って解釈したいところだけど、おれはこの台詞が映画から独立して成立するほどの強いメッセージとして受け取った。

おれは同性愛者で、そのことで生きづらさを感じながら成人し、大人になった今でも、胸糞の悪いニュースや『優しさをどこに忘れてきたのだろう』と目を覆いたくなるようなネットでの暴言に出くわす毎日だから、この台詞が多くの人の目に触れる映画で発せられたことに感動した。

この映画で胸が苦しくなった場面があって、それは母親が湊君に対して「あんたは家族を持って、子供を持って」と語りかけ、それが「幸せ」なのだから私はそれを全力でサポートしたいと語りかけるシーンだ。母親にしてみれば全くの善意であり、嘘偽りのない思いやり、全力であなたを守るという決意表明なのだが、その100%の愛情が息子を追い詰める要素にもなるという描写である。

同性愛者であることを自覚した子どもにとって、親のこの類の「愛情の押し付け」はめちゃくちゃに残酷である。それは、ここ日本では同性愛者が同性の伴侶と結婚して子どもを持つという事が、想像を絶するほどの困難であるからだ。

異性愛者である親の中には、好意を持つ伴侶と子どもを持ち、伴侶と子どもがいる幸せな家庭を持ち、その家庭を維持する事が幸せであるとする人がいるだろう。その幸運にも手に入れる事ができた幸せを、幸せのカタチである「家庭」を、自分の子どもにも持たせてやりたいという願いは何も間違っていない。思いやりに溢れている。優しい親だからこそそう思うのだろう。でも、その幸せは、日本においては異性愛者にしか手に入らない幸せである。映画のラストで校長先生は言った。「誰かにしか手に入らないものを幸せとは言わない。誰でも手に入るものを幸せって言うの」と。

おれはこの台詞を聞いてこんな風に思った。

伴侶を得て、家庭を持ち、子どもを育てるという幸せを、異性愛者だけでなく、誰でも、同性愛者でも、手に入れる事ができる社会になって欲しいと。

今の日本では、同性愛者である子どもたちは、結婚して子供を持つという、異性愛者である親が当たり前に思い描く家庭を持つ事ができない。それが政府の方針だからだ。だから、日本の現状が変わらない限りは、同性愛者を自覚する子どもに対して親が「結婚や子育てこそが幸せなのだ」というスタンスで臨むと、子どもは苦しむことになる。そんな事言われても、どうにもならないじゃないかと。

この映画でも描かれていたけれど、異性愛者の親からしてみれば、自分の子どもが同性愛者かも知れないという発想自体が困難なのかも知れない。映画でも、夕飯時のテレビに映っていた「唇プルンプルン」というCMを見て母親は無邪気な笑い声をあげており、母親の視点で語られるパートでは湊君もそれを笑っていた。だけど、湊君視点のパートに移ると、湊君が実際はこのCMに引っ掛かりを覚えていたのに、母親の手前作り笑いをしていたという事実が描かれている。詳しく覚えていないが、このCMは性的少数者を馬鹿にするような類のものではなく、湊君の心の揺れ動きを描写するツールとして差し込まれているものかなとは思ったが。

それにしても、この国ではメディアが「性的少数者を笑いものにしても良い」として扱う期間がとても長く続いた。おれが子どもの頃から、テレビでは幾度となく同性愛者が馬鹿にされ、笑い者にされ、気持ち悪い存在として扱われる場面に幾度となく出くわしてきた。何度も何度も何度も。大人になった今でもたまに出くわす。その度に傷ついてきた。そして、表面上は無関心を装ったり、見えなかったフリや聞こえなかったフリをしたり、たまに作り笑いを浮かべたりしてやり過ごしてきた。

話は戻るが、異性愛者の中には「同性愛者は見たら分かる」と思っている人がいるかも知れない。異性愛者が普段認識できる同性愛者(性的マイノリティ)は、劇中のTVCM「唇プルンプルン」のドラァグのように華美なメイクや女装をしていたり、オネェ言葉のように独特な話し方をしたり、依里君のように男の子よりも女の子と仲が良く、球技よりも人形遊びや編み物に興味を示す男の子達だろう。だから湊君のように、普段の行動や言葉使いからは同性愛者だと窺い知れない子どもに対して『同性愛者かも?』という発想が湧かないのかも知れない。ましてや、子どもが親に対して「自身が同性愛者である事」を隠しているのであれば、気づくのはますます困難だろう。

というか、子どもの性的指向に気付けるかという話以前に、子どもが何を考えているのか、子どもに何が起こっているのかなんて、他人には分かりっこないのではないか。母親が捉えられた事実の断片である子どもの怪我、切り落とされた髪の毛、水筒に入っている石や泥、片方しかない靴、子供の証言という情報からでは子どもたちの真実に辿り着けなかった。

じゃあ、どうしたら真実に辿り着けたのだろうか。

それを、考える映画では多分、ない。

村上春樹が著書『スプートニクの恋人』で「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」と書いていたけど、この映画でも同じ事が言えるなと思った。人はそれぞれ自分の見たいものを見て、自分の想像するストーリーを組み立てて、相手を怪物と見なすことがある。それはまた逆も然りで、相手からすると自分も怪物になっている事がある。色々な情報を頼りに相手を理解したと確信しても、それは誤解の塊りだったりする。じゃあ理解したと思い込んでいたものが誤解だと判明したときにどう動けば良いのか。そもそも他者を理解するなんてできないという前提に立ち、どのように他者と相対するか。そういう映画なのだろうと、おれは思った。

この映画のラストは眩い光の中で二人が楽しそうに駆け回っていて、子どもたちの前途は明るいのだとおれは捉えたけど、その光が眩しすぎるせいで、幸せな瞬間はあまりにも儚いという捉え方もできるだろう。はたまた、湊君と依里君が実は台風の日に亡くなっていて、生まれ変わった世界で幸せになったと観る事もできるかも知れない。色々な捉え方ができるのだろうけど、おれは二人が台風を無事にやり過ごして、生き延びて、未来の光に向かって走り抜けているのだと思いたい。

子ども達にはいつだって幸せでいて欲しい。ひどい事や悲しい事がその身に起こらないようにと願ってやまない。

この映画は一人で観にいったのだけれど、恋人と一緒に行けば良かったと後悔した。そして恋人がどのような感想を持つのかを聞きたいなと思った。なぜならおれの恋人は「ゲイであることを理由に生きづらさを感じたことはない」と前に言っていたからだ。おれはそれを聞いてものすごく衝撃を受けたのだが、恋人と一緒に暮らし始めると、彼の凄まじいまでの鈍感力、利己的性格、交友範囲の狭さ、他人への興味の無さなどが分かってきて『さもありなん』と思ったのだった。

結局、ヒトとしての苦しみは他者との関わりや比較によって起こるのであって、おれの恋人のように「ほぼ世捨て人」のような交友関係の薄さで不満なく過ごせる人にとっては、自分がゲイだろうがストレートだろうがあまり関係ないのかも知れない。

ただ、おれの恋人の性格が特殊過ぎて、おれは彼のようには生きられない。

最後に、おれは湊君と依里君が「同性愛者」であるという前提でこの文章を書いたけど、思い返すと別に彼らは自分が同性愛者だと言ってはいないし、湊君に至っては、恋心、友情、性的指向など自分の心が揺らいでいる時期であるという描写があったので、思い込みで書き進めてしまったなぁと反省した。

ただ、彼らが同性愛者だろうが異性愛者であろうが、これからを生きる彼らに降りかかる困難が、少しでも少ない人生でありますようにと願っている。